一貫性の誤謬
レジデント初期研修用資料
経営が迷走した企業だとか、政府に対しては、「一貫性を持った対応が為されていない」なんて批判される。
「一貫性なくしてビジネスに勝機なし」なんて断言する、成功した経営者もいる。
こういう考えかたは間違っていると思う。
成功した人には一貫性が観測される
成功したプロジェクト戦略のことごとくは、あとからそれを振り返れば、リーダーの、一貫した判断に基づいた運営が為されているように見える。
経営判断や政治、戦争の判断に至るまで、「判断の一貫性」というものは、まず必ずといっていいほど観測されて、「一貫性は大切だ」なんて思われる。
ところがたぶん、「成功したプロジェクトには一貫性が観測できる」ことはたしかだけれど、そのことは決して、「一貫した判断に基づいたプロジェクトは成功する」ことを意味しない。
「一貫した判断が観測された」プロジェクトのリーダーは、プロジェクトが進行しているその時は、一貫した基準に基づいて、何かを判断していない。
幅の広い道路を、ただまっすぐ走る。 ある人は真ん中を走るし、ある人は、端っこを走る。対角線に走る、迷惑なドライバーだっている。 流れに従う車もいれば、前の車にただついていく人もいる。
外からそれを観測するかぎり、「走りかた」にはいろんな流儀を見いだせるけれど、走っているドライバーは、 「自分のポリシー」なんて考えないで、目的地まで、安全にたどり着くことだけを考えている。
成功したプロジェクトを外から眺めれば、必ずといっていいほど、何か一貫した判断基準が観測できるけれど、そんな事例をいくら集積したところで、「一貫性が大切だ」という結論は、出してはいけないのだと思う。
たぶん現場でやられていること
状況は見えない。それはたぶん、どれだけ天才じみたリーダーにおいても変わらない。あらゆる判断は、チームが対峙した状況ごとに、不十分な情報に基づいて、場当たり的に行われる。
判断はだから、合っていることもあれば、間違っていることもある。自分が考え、行動していることは果たして正しいのか、行動方針を決めて、それを観察しているのも自分自身だから、正解は見えないし、系の中からは、「絶対的な正しさ」なんか、判断できない。
成功したリーダーは、たぶん「成功しそうな」ことだけを考える。判断の都度、自らの「一貫した価値基準」を確認したりはしない。
成功したリーダーはその代わり、自分の正しさを信じない。
手元に集まる情報が不十分なときには、「どちらに転んでも大丈夫な」ように判断を下すし、それすらできないとき、「これまで自分はどんな基準に基づいて判断を下してきただろうか? 」なんて、自問することしかできない状況に陥ったなら、判断を放り出して、一刻も早く、その状況から逃げ出すことを考える。
結果として「成功するリーダー」には、あとから観測すれば、必ずといっていいほど「一貫した判断基準」を見いだすことができるけれど、一つのプロジェクトが終了するまで、リーダーには「一貫した基準」など存在しないし、むしろリーダーが「一貫した基準」にこだわったその瞬間、「成功するリーダー」はそこから逃げ出すから、そのプロジェクトもまた、失敗から逃げられるのだと思う。
警報としての一貫性
「自分は正しい」と思ったその時にこそ、自分自身を信用してはならない。
「一貫した判断を重視せよ」という言い伝えは、だからそんなものが自分の内面に形成されたり、普段なら気にもとめない、「自らの一貫した価値基準」なんてものが頭をよぎったその時には、その人はすでに、危機的な状況に足を踏み入れていることを自覚すべきだ、と解釈すべきなんだと思う。
病棟で働いていていると、「一点全賭け」状態になって、結果を待つこと以外何もできない状況に陥ることがある。
不明熱の患者さんなんかを診察していて、「これは○○ウィルス感染症に違いない」なんて、特殊な検査を提出して、結果が出るまでの4 日間、無為に過ごすしかないような状況。
自分が一度そう判断してしまったものだから、待っている間、患者さんに対して別の介入を行うことが、何となくためらわれる。「分からなかったら病歴を振り返れ」だとか、「症状に表れない病気は考えなくていい」だとか、偉い先生達の教えに従ったところで、「自分は正しい」なんて考えかたに取り憑かれてるから、判断はもう、覆るどころか、待ち時間の間、根拠のない確信だけが膨らんで、状況は何も変わらない。
診断が「当たり」だったなら、話はそれで丸く収まるんだけれど、予想が外れたら、その間に失われた患者さんの時間がすごい重圧になって、頭の中には「代案」なんて浮かばなくて、目の前が真っ暗になる。
こんなことを繰り返していると、「この病気だろう」なんて確信が生まれて、他の選択枝が失われそうなその時、すごく嫌な予感がするようになる。一貫性が頭をよぎると、自分なんかは恐慌状態になって、その状況から逃げだしたくなる。
そうなったらとりあえず、自分を全力で否定することにしている。
採血検査を、同僚10人が10人「馬鹿」と判定するぐらいに広く提出して、怪しそうな場所を、造影なしのCT スキャンで広範囲に撮影して、とにかくまず、全力で「馬鹿で哀れな医者」を目指して突っ走ってから、いろんな科の先生に泣きついて、意見を仰ぐ。
過誤というのは、おきる時までは自覚されない。思い込みを、その人の力だけで覆すのは不可能に近い。
不可能だからこそ、それが危険だからこそ、自らの正当性を裏打ちするような「一貫性」が頭をよぎったその時には、それを警報と受け取るべきなんだと思う。