人権という迷信

池田信夫ブログより
きのうの記事がわかりにくかったようなので、少し補足しておこう。「基本的人権」を信じる人にとっては、人権を売買するというのは許しがたい発想だろうが、そんな不可侵の重大な権利が「生まれながらに万人に等しく与えられている」というのは、根拠のない迷信である。そもそもこれは事実の記述なのか価値判断なのかも不明だ。

事実としては人が遺伝的に人権を持って生まれてこないことは明らかなので、これは「政府が人々に人権を与えるべきだ」という価値判断だろう。しかし生まれた瞬間に、すべての人に同じ権利を政府が賦与すべきだという根拠はどこにあるのだろうか。こうした自然権の概念の欠陥を最初に指摘したのは、エドマンド・バークである。彼はフランス革命の掲げた人権(human rights)の絶対化を批判してこう書く:
私は、各個人が国家の運営において持つべき権限、権威、指揮などを文明社会内の人間の本源的直接的な権利に数えることを拒否する。私の考察対象は文明社会の人間であって、これは慣習(convention)によって決定さるべき事柄である。[・・・]統治機関は元来、それからは全く独立して、格段に明晰で抽象的な完成の姿で存在するごとき自然権のために形成されるものでは決してない。(『フランス革命についての省察』上、p.110〜1)
このように「知的財産権」や「プライバシー」を絶対化する人々の主張は、バークによって200年以上前に否定されたものだ。人はどんな権利も生まれながらにもってはいないし、特定の絶対的な権利をもつべき先験的な理由もない。

権利とは、定型的な契約のテンプレートを実在的な対象として表現することによって契約手続きを簡素化する技術である。これはプログラミングでいえば、特定の関数(契約)の集まりを標準化し、オブジェクト(権利)としてカプセル化するのと似ている。権利を法律として実装して変更不可能にすることは、契約を繰り返し利用可能にし、効率的に執行する上では便利だが、それ以上の意味はない。

経済学はこの点について自覚的で、たとえば所有権は、すべての出来事(contingency)が事前に特定できる完備契約の世界では存在しない(これは実はマルクスと似ている)。それが必要になるのは、契約で想定した以外の出来事が発生した場合に、それを処理する残余コントロール権を特定の当事者に事前に与えることによって、彼が投資水準を最適化するためだ。したがって事前に当事者の合意が成立していれば、どんな権利を設定してもかまわない。

たとえば「年俸を2倍にする代わりに私をどんな企業に転売してもかまわない」という契約でもいいし、逆に「雇用は保障してほしいが賃金はいくら下げてもいい」という契約でもかまわない。こうした契約の自由度を上げることによって労働市場の柔軟性を高めようというのが労働契約法だが、団体交渉権の独占を失うことを恐れる労働組合の政治力によって形骸化されてしまった。

著作権にしても労働基本権にしても、本質的には定型的な契約にすぎず、絶対不可侵の自然権ではない。それは法律として絶対化されれば国家によって強制されるが、本源的にはバークもいうように慣習によって形成されるものだから、実態にあっていなければ変更するのが当然だ。規制強化や権利のインフレによる官製不況を逆転させるには、まず人権という迷信から覚めることが必要だろう。

追記:コメントで教えてもらったが、週刊ダイヤモンドの元編集長が「正社員のクビを切れる改革」が必要だと論じている。