10年後の医療

レジデント初期研修用資料より

医療過誤保険のこと
アメリカの医療費は高い。医師の報酬もまた高い。医療過誤に対する保険料はもっと高い。

アメリカの救急医は訴訟が多くて、賠償金額も高いからなのか、医療過誤保険の保険料が、年間1800万円とかするらしい。保険料高すぎて、払い倒れてフードスタンプをもらっている医師がいるらしくて、年収2000万円もらっているのに、家賃払えないとか、笑えない。

日本の医療過誤保険は、学会で推薦してるようなものでも、年間せいぜい7 万円ぐらい。

国が違うから単純な比較はできないけれど、保険料の1800万円と7 万円の差というものが、恐らくはその地域の「信頼のコスト」なんだと思う。

信頼のコストは、そのコミュニティの中で、もっとも猜疑心が大きな人が決定する。

誰かを信頼しやすい、「良心的な」人がいくらたくさんいても、猜疑心の最大値が下がらないかぎりは、一度上がった信頼コストを下げるのは難しい。


「低信頼コスト村」の作りかた
アメリカの、民間健康保険のサービスは、所得に逆比例するところがあって、富裕層向けの保険商品ほど、コストあたりのサービスが優れていて、低所得向けの商品は逆に、値段が高いくせに、保険でできることというのが、限られてたりするらしい。

富裕層は気前よく保険料を支払うし、そもそも健康に気をつけるから、病気になりにくい。「裏切らない」ことに対して、保険会社も信頼するから、健康保険はサービスよくて、一方で所得が低い人というのは、恐らくは病気になる機会が多かったり、自分の健康に対してそこまで気を遣うだけの余裕がなかったりで、結果として病気になりやすい。低所得層向けの健康保険は、だから使えるサービスが限られて、支払ったお金の割に、サービス悪いらしい。


「猜疑心村」の診療所
「猜疑心を放棄すること」に利益が生まれるような市場設計ができればいいなと思う。

信頼のコストは地域によって様々で、自分たちが今働いている場所は、それでもまだまだ信頼コストが安いほうだけれど、近隣の高コスト地域から病院が撤退して、うちの外来に来る人も、顔ぶれがずいぶん変わった。

信頼コストが極端に高い「猜疑心村」では、医療のありかたがずいぶん変わる。

問診だとか聴診、エコーみたいな、術者の技量だとか、患者さんの状態によって信頼確度が変わる検査は、怖くて施行できなくなる。

CTスキャンだとか心電図、採血検査みたいなものは、基本的に誰がオーダーしても同じような結果が得られるものだから、「猜疑心村」の診断は、むしろこうした検査で考えないといけないから、どうしたってコストがかかる。

病院に来る人の顔ぶれも変わってくる。

「猜疑心村」では、何か症状を訴えてくる人は相対的に減少して、むしろ「何もないこと」を買いに来る人、自分が健康であることを証明してほしいだとか、とりあえず保険で健康診断をしてほしいだとか、そんな訴えの元気な人が増える。

「ない」を証明することは、極めて難しい。それをやるためには、目的のない、詳しい検査をたくさん出して、全てが正常であることを確認するやりかたしかできないから、医療費は高騰してしまうし、「普通の診察」買いに来た人にも検査が乱発されてしまうから、「普通の人」の満足度は、たぶん信頼コストの増加とともに下がってしまう。

恐らくはどこかのタイミングで、施設ごとの「囲い込み」みたいな戦略がとられる気がする。猜疑心の高い住民を排除して、病院ごとに「低信頼コスト村」を作るやりかた。

規模の小さな病院から、「村」を作って患者さんを囲って、地域の基幹病院に、「猜疑心村」の管理をお願いする。コミュニティの猜疑心が高まったところから利益を得る人達がいて、その人達が、「猜疑心の放棄」に対する抵抗勢力になってる構図。

猜疑心の階層化が為されたとして、高猜疑心村で働くのは地獄になりそう。公立施設はどこも厳しくて、中の人達が地域の猜疑心に疲弊して、後任もなかなか決まらない。基幹病院が吹き飛んだあとのことを考えると恐ろしい。

多かれ少なかれ、今地域の公立施設は「猜疑心村」になっていて、そこで仕事を続けるのは大変なんだとか、いろんな話を聞く。みんな「暖かい」「人間的な」対応を求めて病院叩いて、叩かれた側は怖いから、対応はますます官僚的な、画一的なものにならざるを得なくて、信頼コストは跳ね上がる。

限界集落じゃあないですけど、限界医療っていうか、ある地区に一カ所しか病院が無くなると、地域住民は急に暖かくなります。

医師数が限界ギリギリなので、地域の人(開業医を含めて)にとって「病院を維持すること」の大切さがよく分かっているのだと思います。一番近い病院は北へ1時間、南も1時間ですから。
北にある市内には2カ所病院が生き残ってしまっているので結構辛いと聞いています。比較されるからだそうです。お互い不満だらけです。どちらか潰れないと改善されないのだろうなあって岡目八目です。比較的残るのはJR線がまだ営業している沿線の街とかでしょうか。自動車でしかアクセスできないような場所は年寄り生活できませんから。開業、勤務する場所もそういうところが安全かと思っております。

日本中の病院がリストラクションされたらいいと思うのですが、、、現実的には5年くらいかかるのかなって思います。既得権を手放さない人たちが沢山いますから(^^;)

医療者側が生き残るには、患者さんのコミュニティーを任意に選択する権利を持つとか。良い医療には高い報酬、っていうのが本来の自由主義なんですけどね。

フリーアクセスを諦めて、階級に見合った医療しか提供しないか。一見さんお断りにすると楽だし、信頼関係の築ける患者さん達を囲って「かかりつけ医」になるのも精神的に楽。


僕は、医療は、医療ミスしたときのコストが高すぎるのでリスクが非常に高く高価なものだと思います。
日本でもアメリカ同様にミスを厳格に処罰する団体や弁護士の力が増えてきたら似たような状況になるように思えます。仮に、一万人に一人医療ミスをしたとしてもその損害額が一億なら、医療費を一万円多く取らなければなりません。

ただ苦しんでいる人を助けたいと思い活動していることから考えると、訴訟リスクを価格に転嫁するのは必ずしも消費者の利益になるものではないと思います。

本来訴訟は、損害を被った人が損害を与えた人からお金をもらうことを目的として損害を与えた人が損害を与えないように努力をさせるものだと思っています。信頼ということもありますが、偽装食品にしても訴訟による罰金が一億なら、偽装によって2憶儲けれるなら偽装するほうが合理的になります。

しかし、医療において同じことをすればお金のない人は医療が受けれなくなります。
お金のない人でも訴訟をする権利を持っており、訴訟する権利をいやでも持たなければならないことが問題だと思います。なぜなら訴訟する権利を持つだけで医療費が高くなるからです。

そもそも、医療訴訟が起こることが問題だと思います。当事者責任を問わない(明らかな故意を除いて、、)制度が早く実現して欲しいです。

訴訟は、人間関係を崩壊させます。。それを上手くマネージメントしようとすればコストがかかりすぎます(アメリカみたいに)。故意でないミスとか過誤を訴訟にしない仕組みを早く作らないといけないと思います。

そうでなければ、国民皆保険制度すら見直して、階層に応じた医療を行っていくしかないのかもしれません、不本意ですが。自由主義の限界でしょうか。